« 前の記事 | トップページ | 次の記事 »

葛飾区と慶應を振り返って

今日は、がっちりマンデーの葛飾区の職人さん特集ということで、収録のゲストに招かれて行ってきました。

私は生まれが葛飾区の高砂、そして結婚して独立してからもしばらく葛飾区に住んでいたので、30歳の年まで葛飾区の住民でした。

葛飾区の特徴は、東京23区にありながら、まだほのぼのとした地元文化と職住近隣が残っていることです。そして、23区の中でめずらしく地下鉄が走っていません。電車は北部に常磐線が、南部に総武線がわずかに通りますが、メインはやはり、区内をX字状に駆け巡る京成線。首都高も、四つ木まで行かないと乗れません。

小さい頃は自然が十分に残っていて、中川や江戸川の河原でシロツメグサをとって王冠にして遊び、ヨモギをとってヨモギ団子を近所のおばあちゃんにつくってもらい、柴又帝釈天の参道で買った佃煮やさんのイナゴの佃煮を食べていました。

区内にはデパートがないので、松戸や市川まで電車や車で行って、買い物をしていました。繁華街もないので、上野、浅草、銀座等まで電車で30分くらいかけて、外食によく行っていました。

私の親も地元の町工場の経営で、3歳くらいまでは自宅の1階が工場、2階が住居でした。その後、工場は亀有に移ってしまいましたが、工場のあとのところで三輪車で遊んでいた記憶があります。

ところが、がっちりマンデーのMCの加藤さんや、ゲストの森永さんに「(私の雰囲気が)葛飾区らしくない」といじられたのですが、その理由はどうやら、中学から区外に出たことがあるのではないか、ということでした。

姉や父の従兄弟たちが慶應の付属に通っていた縁もあり、慶應に中等部から入学し、そのまま大学まで慶應でした。京成から浅草線に乗り継いで30分強、せっせと三田まで毎日、毎日、通っていました。

当時の中等部は、東京の東部よりは西部から通ってくる生徒が大半でしたが、それでも葛飾区や隣の墨田区から通ってくる同級生も何人かいて、みなで仲よく登下校していました。

慶應の特徴は、とにかく自由なこと。細かい校則がほとんどありませんし、独立自尊、の精神で生徒をのびのびとさせてくれる学校でした。また、受験もないため、趣味のパソコンを筆頭に、勉強以外のことにたくさんの時間を使えたのが、今となっては財産となっています。

付属時代は本当に勉強しなかったので、大学に入ってあわてて会計士の勉強をしたり、卒業してから英語を勉強したり、いろいろとツケが回ってくるのですが、勉強の気力が残っていることがよかったのかもしれません。

その慶應も卒業してから早20年、幹事年ということで、三田祭の副幹事の役目が回ってきました。

2011年慶應連合三田会大会

卒業生のお祭りみたいなものですが、マッスルミュージアムのようなイベント、車が当たるくじ引き、チケットの購入額に応じた記念品などが付いています。

幹事会で懐かしい仲間と会う機会も増え、久々に慶應のことをたくさん思い出しました。連合三田会は再来月の10月16日日曜日です。場所は日吉です。お昼過ぎから、私も講演を予定しています。

慶應卒業生の方も、そうでない方も、もしよかったら、足をお運びください。1万円1シートのチケットで、5人まで入場できます。

チケット入手ご希望の方は、twitterの @kazuyo_k 宛にreplyか、私がフォローしている場合はDMで連絡いただけると幸いです。郵送でお送りします。代金は銀行振込でお願いします。

地元の力も、学校の仲間も、中年になるとそのありがたみがわかるなぁ、とつくづく思います。

余談
修士と博士課程は私は早稲田なので、慶應に10年、早稲田に5年通った計算になり、早慶戦(慶應では慶早戦といいます)ではどちらを応援しようか、迷うところです。

このエントリーをはてなブックマークに追加

勝間和代オフィシャルメールマガジン 登録無料
ページの先頭へ