2011.03.14
現時点で、地震に対して思うことをまとめておきます
大地震が起きてから3日がたちました。その時からの、いろいろな学びをまとめておきます。
学び1-情報が入るまでは、事態の深刻さはまだわからない
ちょうど、発生の時には、三田の「女性と仕事の未来館」で、内閣府の仕事で、村木厚子さんのあいさつのあとに、基調講演する予定でした。
村木さんのあいさつの最後の方ではすでに軽く揺れ始めており、交代の時間になった私のタイミングでは、いくら係の人に促されても、これは講演どころではないと感じました。なぜなら、揺れ始めてから大きく揺れるまでの時間が長くて、大地震であることが容易に想像できたこと、さらにホールのシャンデリアとスポットライトがいまにも落ちそうなくらい、揺れていたからです。
そして、となりの参事官と二人で「危ないから、避難しましょう」ということになり、ホールの扉を開けて、「みなさん、逃げましょう」と、会場内のみなさんに、避難を促しました。
それから、イベントを続けるかどうかといううち合わせをしながら、あまりにも地方の状況がひどいこと、交通機関の麻痺も考えてイベントを中止、余震がおさまるのを待って、徒歩でそれぞれ、帰ることになりました。
この時点では、実は私、自分のネイルの予約や、夜に同窓会のうち合わせなどを入れていて、「出席しようかなぁ、どうしようかなぁ」なんて、のんきなことを考えていたくらいです。
しかし、情報が集まれば集まるほど、状況が悪いことがわかり、どちらもすぐにキャンセル、twitterなどを通じた情報収集を開始、また、「帰宅難民」の受け入れも始めました。
それでも、この時点ではまだ、「節電」の重要さについても漠然としかわかりませんでした。
学び2-ある程度、自分の安全が確保できないと、人のことまで考えが及ばない
地震の直後、娘たちの安全の確認、親族の安全の確認を一通りすませてから、ようやく、自分として何を社会的責任を果たすべきか、気づき始めました。もちろん、当日を含めて、それから1週間の仕事の予定はすべて、キャンセルしました。
そして、Chabo!を通じて縁のあるJENさんに連絡をとって、何ができるか考えたり、たまたま47万人のフォローワーという、ちょっとしたメディアになっているTwitterについて、ひっきりなしにRT依頼が来るので、その中で有料な情報を流すように心がけました。
すると、だんだんと自然に、誰がTwitterの中でもハブになっているか、という情報が共有され始めて、情報がどんどん集まり始めたので、その仕分けと再伝達に従事するのが、自分の役割の1つと考え始めました。
学び3-人のため、と決心をしてからも、さまざまな制約の中でできる努力をしなければならない
役割に気づいたので、JENさんといっしょに現地にいこうと思ったのですが、私のスキルレベル(サバイバルに対する知識など)では、現状の余震その他のリスクに対して、脆弱すぎて、議論を重ねたのですが、第1陣には参加しないことになりました。
その代わり、東京で新しいタグをつくったりして、引き続き、情報収集に当たっています。そしてあたりまえですが、気づいたことは、すべて、自分の利害や関連性との関わりにとっても、敏感だということです。
例えば、東電の停電情報と、自分とは少し遠い地域情報ですと、圧倒的に、前者の方が関心が高くなります。原発の事故も、なぜ気になるかというと、自分に対して降りかかる虞があるリスクが、気にかかるわけです。
また、結局、なにか、行動を起こすと、必ず、その行動に対して非難をする人がいます。その非難は的を射ている場合もありますが、そうでない場合は、「行動を起こす人に対してそれを止めることで、無意識にある、行動を起こせない自分の正当化」という部分が多くあり、対応につかれます。
それでも、できることは、やり続けなければならないのです。
学び4-そして、この災害のあと、日本は見違えるように生まれ変わるという予感を持っています
ところが、この地震について、本当に不幸なことであったとは思いますが、今回の災害を通じて、日本人が大きく学習し、そして、ある意味、よい方向に生まれ変わるのではないかと思います。
災害復興には、全体の管理と、利他の心が不可欠です。全国民が、そのような学習機会を得られることなど、ありえないほど、小さな機会です。
そして、この災害を乗り越えることで、自分たちもできるのだ、という自己肯定感が国民に広まる可能性が高いと考えています。
もちろん、現段階では、すべての被災地は予断を許さない状況で、聞けば聞くほど、食糧、インフラ、情報など、足りないものだらけです。そして、そういう場面こそ、みなが人のためにがんばるのです。
繰り返し、繰り返し、学習して、よりよい社会を作ること、それが、今回の災害に不幸にして被害を受けてしまった方たちへの、せめてものできることだと思います。